薫風香る季節。長野県の斑尾高原から山形の月山、そして鳥海山麓に旅したことがある。
近くの野原で春の花の蜜とたわむれていた蜂が、ちょっとした拍子に窓のスキ間から入ってきた。蜂は外へ飛び出そうとして一生懸命。窓ガラスに頭を打ち続けている。ちょっと方向を変えさえすれば、開けた窓のスキ間から外へ出られるのに……。とうとう蜂は車と一緒に東京の新宿まで行くはめになってしまった。
仮に、蜂がいったん冷静になって、どうすれば外へ出られるのかを考えたらどうであったろうか。あたりを見回し、適切な状況判断能力さえあったら、なんなく外へ出られ、おいしい蜜を腹一杯味わうことができたであろう。
人間でもいつも懸命に努力しているのだが「ちっとも効果があがらない」と愚痴る人がいる。努力しても蜂と同じようにガラス板に頭を打ちつけるような努力をしていては、労多くして進歩がない。従来の方法にばかりとらわれていて、新しい状況に対する計画性を忘れているのではないだろうか。
ノミの実験がある。透明なガラスでできた半円球の容器の中で訓練されたノミは、その半円球の容器の中から取り出してやっても、その容器の高さ以上には飛べなくなる。本来ならば、もっと高い跳躍力があるにもかかわらず。このノミも、もうすでにまわりの状況が変わっていることに気づいていないのである。
サーカスの象は、子象の時から鉄の杭と重い鎖でつながれて大きくなる。弱い子象の力ではこの杭はビクとも動かない。しかし、やがて大きくなって何トンもの物を簡単に動かすことができる巨象になっても、今度は小さな木の杭にロープでつながれただけで象は動こうとしなくなってしまう。
私たちの「経験」は、非常に大切である。物事を判断し、難局に立ち向かう時、過去の経験や体験が大きく影響を与える事は確かである。しかし、あまりにも経験主義、体験主義にのみたよることは状況因子を軽視することになる。すでに、その時の経験や体験とは、状況もテーマも当事者も変化していることが多いからである。
経験や体験は、どちらかといえば「感情や心」に深くしみわたる。学習は新しい物事に対するサイエンスであり、理性に刻み込まれる。
会議やサークル活動などの討議の「場」においては、年配者は、やや経験、体験主義に傾斜しがちなのに対し、若年者は、学習主義を主張しやすい。
しかしながら、現実の問題解決は、最終的には、経験主義と学習主義が二人三脚のように、力を合わせた時に最も良い結果となるようだ。