海外労働事情施策でアメリカを訪問した。
毎日のハードな日程をこなしながら、あいまの時間と夜は心理学の友人たちと会ってきた。 特に、ロサンゼルスではカルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)教授や日本人の友達が歓迎の宴を開いてくれた。ビバリーヒルズのビルウエイという高級住宅地に教授の家があり、青白いプールサイドでのパーティーであった。さわやかな夜風に浮かんだ満月だけが、日本と同じだった。
翌日は、1人だけ時間をいただいて、リトル東京の日米文化交流センターに行った。友人の心理学者に会うためである。
ちょうど、その日は、高年齢者専用公営アパートに老人の訪問と血圧測定の日だったので、いっしょに行って手伝った。家賃は30%の国からの補助があり老人たちが暮らしている。単身者のみであって病気をしたり寝たきりになれば、すぐ別の老人ホームに贈られるのである。 リトル東京に近いだけに日系Ⅰ世が多く入居している。
突然、アメリカ人スタッフより「ミスターサトー、通訳をしてくれ」という声がかかった。理由を聞いてみると、日系Ⅰ世の人には、けっこう英語ができない人が多いのである。
そのうちのミセス斉藤と会って、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
ミセス斉藤は小柄で白髪の上品なおばあさんであった。100歳近くなって、かくしゃくとしている。
岡山県出身で、30歳で移民として渡米、現地で結婚し、3児をもうける。せっかく、カルフォルニア州フレズノで農場を経営し成功すれども、第二次大戦のため強制収容所に入れられ、夫はそこで死亡する。 女手1つで子を育て、長男は医者、次男は大会社の副社長、末娘は幸福な結婚をしているのであった。
ミセス斉藤は、60年アメリカに住んで、英語が全然できないのである。 他の日系の人々も同じような人が多くいた。
「斉藤さん、日本に帰りたくなることは、ありませんか」と聞いてみた。
ミセス斉藤は、しっかりした口調で「日本を離れるとき、アメリカで骨を埋めるつもりできましたから、帰りたくはありません」と自分に言い聞かせるように語った。
日本の新聞で読む、アメリカでの日系の強制収容所の話しも、不毛の砂漠を見て、そこに入れられた日系の人々から直接話しを聞くと目頭が熱くなった。
カリフォルニア大サンディエゴ校(UCSD)の学生生協の本屋に入った時に「真珠湾奇襲」という5センチもあるようなブ厚い本が置いてあった。過去を問わない国、実力の国、個人主義の国のアメリカ。
サンタモニカの美しい海岸でサーフィンに興ずる金髪の若者達よりも60年間、日本語だけで通し、子供をりっぱに育て上げ、今、1人で高年齢アパートに暮らしているミセス斉藤に私は強い感動をおぼえた。
私はロサンゼルスのホテルの一室で愛をこめて書くことができた。