書店には「安倍総理」「習近平」「トランプ大統領」「プーチン大統領」などに関するセンセーショナルな見出しの本が多く並んでいる。
なぜ、その時々の政権の政治家の本が売れるかというと、企業経営やビジネスの世界がサバイバルな世界であり、マキャベリステックな社会であるからであろう。
だからこそ、そのような世界で戦っている人々の本が、ビジネスパーソン・組織人と言った人々に好まれるのだろうか。
組織の人として生きていくには“権力”や“権限”というものと一日たりとも無縁では過ごせないためであろう。
金脈・人脈は組織の大小にかかわらず重要であり、その盛衰は、己の生活をも左右する要諦となっているからである。
従って、入社1~2年のビジネスパーソンなどは己の仕事の成否を、所謂「権限」の範囲を広狭に求めるのである。
仕事への順応が、己の実力の拡大と錯覚し、上司が権限を委譲してくれないから「オレは能力を発揮できない」などと考える人もいる。
元臨時行政調査会の士光敏夫会長は「権限は自分でつくるもの」と語っている。
権限の大きさは、その人の器の大きさに比例するものであるという視点である。
日本の上司は、権限の委譲の範囲を示すのではなく、仕事のポイントを示し部下にまかせる。
結果的に、仕事の権限の委譲は、部下がその仕事をいかにうまく料理するかといった“腕まえ”をじっくり見ながら決められていく。
従って、権限は仕事の前に明確に約束されるものではなく上司と部下の共同製作過程において結果として生み出される。
この点、ポストそのものが権限の象徴である欧米のビジネスシステムとは異なるところであろう。
所謂、権限の属務主義である。
職位が優先であって、職位がなくなれば権限もなくなる。
しかし、日本ではこうはいかない。
同じ職位であっても、人が変われば、その人の器量に応じて権限も変わる。
まさしく権限の属人主義的要素が濃い。
まさに“猫は家につき、犬は人につく”が如く、欧米では権限が猫の如く職位につき、日本では犬の如く人につく。
従って、今はグローバル化もあってだいぶ変わってきているものの、日本の組織では、新人社員も、年を経るごとに“できる若者”には大きな権限が次第に認められ、“ダメな若者”からは権限は、徐々に削がれていくという傾向はみられる。