メンタルヘルス最前線⑦ イヤイヤ昇格で自殺未遂
総合心理教育研究所主宰 佐藤 隆
<正直な人柄があだとなる>
M氏(38歳)は妻と二人の子供と共に実直に生活を続けている。通信教育で大学卒の資格を取り、機械製造メーカーの現場のサブリーダーとして勤務している。
無口で温厚正直な人柄はだれからも好かれ、仕事ぶりも優秀であった。上司や同僚からも認められ、今年の4月にはその班のリーダーである班長への昇格通知が渡された。周囲もM氏の昇格を喜ぶ毎日であった。しかし本人は、肩にどっしりとかかってくるであろう班長としての責任を考えると、気が重く不安だった。何ごとも完璧に几帳面にやらないと気が済まないM氏の性格が、ますますその不安を大きくするのであった。
昇格と前後して注意集中困難、不安感、記憶力減退、能力低下などを中心とする症状が現れてきた。
クタクタに疲れて帰宅するM氏を見て妻が心配し、本人を連れてメンタルヘルス相談室を訪れた。カウンセラーと面接したM氏の症状は重く、神経科での投薬が必要と判断され、以後カウンセリングと薬物療法のケアが継続されることになった。
<M氏の本音と家出>
M氏は「本当は班長への昇格の話があったとき『会社のご配慮には感謝しますが辞退させてください』と断ったんです。しかし外からは元気そうにバリバリやっているように見えるらしく『君は優秀だから職場のために頑張ってほしい』と言われて『イヤです』と言えなかったんです。本当は今でもやめたいんです」と気落ちした表情でカウンセラーに語った。しばらくするとM氏は相談室にも病院にもこなくなった。何か状況が変わったのだろうかと思っていたら、ある日奥さんから「三日前、うちの人がちょっと出てくると言ってジャンパー姿で出かけたまま帰ってこないんです。所持金は2、3千円だけです」と電話が入った。その電話のあと、警察に捜索願を出そうかと家族の人たちが相談しているところへ、本人がひょっこり帰ってきた。手首に大きなためらい傷がついており、何度か死のうと思ったが、死にきれなかったとのことであった。
<私はもう手いっぱいです>
メンタルヘルス相談室でMさんから話を聞いたところ、班長への昇格後まもなく、組合の役員選びに向けて上司や同僚から「組合支部長へ立候補してほしい」との打診があった。班長になっただけでも不眠や疲労が続いていたのに、それに加えて支部長への立候補要請である。ここで、「私はもう手いっぱいです。できません」とはっきり拒絶できる性格ならば問題はないのだが、M氏はこのときも班長への昇格のときと同じあいまいな態度をとってしまう。班長の仕事の方もますます多忙になる。組合本部からもいろいろ電話が入る。不眠が続き「自分は優柔不断でダメな男だ」「このままだと職場と組合の両方に迷惑をかけてしまう」と思い悩み、カミソリの刃をもって2、3日山の中をさまよった。死のうと思ったが、妻子の顔が頭に浮かんで死にきれず戻って来た。
<先入観が人を追い詰める>
この自殺未遂事件をきっかけに、会社と組合関係者は医師と相談のうえMさんを昇格前の仕事に戻し、組合支部長への推薦もとりやめることにした。M氏の顔に笑顔が戻り、今では元気に働いている。
このケースは本来なら喜ぶべきものである「昇進」と、M氏の「抑うつ性格」の二つが原因となった”抑うつ反応”である。
周りの人々は、昇進や組合の推薦は喜ぶべきことという先入観念を持っていたため、M氏の本当の気持ちに「気づく」ことができなかった。職場において、部下の心のはたらきに「気づく」ことが、今後大きなポイントになってくるだろう。