私は物事をいつも悲観的にとらえる傾向がある。
だから、楽観的で明るい人を見ると羨ましくなってしまう。
自分が楽観主義者であれば毎日がとても楽しく暮らせるだろうなあと思うのである。
例えば、財布に千円札が一枚になってしまえば、悲観的主義の人は「さあ大変だ、あと千円しかない」と考え、楽観主義の人は「あっ、まだ千円もあったのか」と思う。
後者は「帰りにドトールでコーヒーでも飲んでクラシック音楽でも聞いていこう」という余裕のある生活態度が生まれてくるだろうし、前者は「どうしよう、借金でもしなければ」といった暗い態度になってくる。
だから、こんなことが毎日続くと、なんだか悲観主義者の人は凄く損をする人生を送ってしまうような気がする。
同じ現象でも、ある人はコップにまだ半分水が入っていると考え、ある人はもう半分しか入っていないと考える。
なぜ、このような見方の違いが生じるのであろうか。
それは、その人の「心」の感受性の違いに左右されるのだと思う。
学術的に言うと、ベックやエリスの認知理論である。
どちらかと言えば、私の如き悲観主義者は物事を感情的に捕えてしまう。
感情的とは心理現象のうちで主観的な側面のことである。
従って、悲観主義の人は、案外自己中心的で主観的な感受性を持っていると思いつつ自省している。
一方、楽観主義の人は、失敗や不遇に直面したとしても、それは人生の中で自分を鍛える絶好のチャンスであると考える。
物事をきわめて客観的に捕えるのである。
この客観的に観る力の根源は「意志」である。
意志とは「目標に向けられた行動」の事である。
幼児が道で転んで擦り傷をおった。母親や誰かがそばにいれば、そのまま起きないでギャアギャア泣いている。
ところが、同じ行為であっても幼児が一人で転んで怪我をして周囲に誰もいない場合は、もくもくと起きて歩き出す。
決して泣かないのである。
前者の行為は自己愛であり、後者の行為は自立である。
自立は意志の所産である。
とすれば、悲観主義の根源は自愛であり、楽観主義の根源は自立であると考えることが出来る。
こう考えたからといって私のような悲観主義者がすぐに楽観主義者になる事はできない。
ただ、何でも上手くいかないことが、うまく運んでいる時には少しは楽観主義者になれる。
しかし、嫌な事や苦しいことがあった時はウルトラ悲観主義者になってしまう。
が、そんな時でも楽観主義者でいられる人は、やはり自立心旺盛であり「人は人、我は我」と言った客観的思考を身につけている人なのだろう。
こんな人を心から羨ましく思う毎日である。