最近、「田舎暮らし」が結構うけている。
地位もお金も家族もある中年サラリーマンが、突然「南の屋島」で自給自足の生活をしたりするのである。
レポーターのインタビューには、いろんな個性的「田舎暮らし」の人々が、まったく非個性的に「都会から澄みきった空気を求めてやってきました。悔いはありません」と答えるのである。ワンパターンなのである。
現象学的思考パターンの私は、経済、教育、家族内福利厚生、生涯生活ビジョンはどうなっているんだ・・・と深く考えてしまうのである。
でもまたまた深く考えてみれば、これはきっと「ねばならぬ型」人生と「やりたい型」人生の差に違いないのであろうと。
「ねばならぬ型」人生の人は、ねばならなくても「ねばならない」と考えてしまう傾向がある。
一方「やりたい型」人生の人は、いつも「自分はこうしたい、ああしたい」という希望、好奇心、目標というものを持ちつつ生きていく。
○○したい、××になりたいと考えられるのは「生きるエネルギー」の証に違いない。
小生の知りあいの精神科医は「タイを喰えない患者さんは治りが遅い」と語っている。
早く治りタイ、元気にナリタイ・・・という欲望が人間の生きるエネルギーの源泉なのである。「タイ」のある人が心の病を早く克服するというのが精神科医の意見なのです。
最近、とやかく言われている「新型うつ病」にかかる若い人たちに対しては「粘りがない」等といわれている。今年の新入社員の諸君も、きっと「ねばならぬ型」と「やりたい型」のジレンマに悩まされているだろう。
つまり自分が配属された職場の中で決められたからこの仕事をせねばならないと考えるのか、決められた仕事の中で自分のやりたいことをさがしていくかによって心の安定度が違ってくる。
「適正」というものも、長い間見ていると随分幅のあるものである。
むかしの軍隊では、新兵さんにすべて合うサイズの靴がない。そこで靴が自分に合わないからといってモンクを言うと「テメエの足を靴に合わせろ!」と怒鳴られたという。
今は、学校や教師や親の考え方を「オレに合わせろ」と主張する新入社員も少なくない。
しかし、そんな非情にも見える軍隊の靴も怒鳴られながら何とか履きこなしていき、靴下を厚くしたり薄くしたり苦労しているうちに、そのうち、足の骨組みや肉づきが、靴に合うように変わっていくからふしぎだ・・・と経験者から聞いたことがある。
新入社員は「やりたい」という希望もあるから、なかには配属に不満を覚える人も出てこようが、一方、柔軟な可能性を持っているだけに、仕事が自分に合わないと嘆くのではなく、自分を仕事に合わせ、自分が仕事の方にはまるぐらいのエネルギーを持ってほしい。
また、中高年の人は「ねばならぬ」思考から脱却し「俺は○○したい型」の新鮮なアイデアを常に心に注入してほしい。
ちょと支離滅裂になってしまったが許してほしい。