アメリカ人の友と呑みに行った。YES・YESは日本語で何というかと問われ「ンダ・ンダと云う」と教えてやった。水割りもう一枚いかが?なんて言われると、盛んに「ウンダ・ウンダ」と答えているさまは、あやおかし。
東大教授社会学者・中根千枝著の「日本社会」(Japanese Society)という英訳本がある。
それについて”ミニミニ和洋即席討論会”を開いたのであった。
日本は”お察し文化”なのだ
アメリカの友は、何でもイエス・ノーで答える。ところが、日本では「うーん」「まあ」「ちょっと」「あのー・そおー・えーと」「考えておきます」等々と続くのだ。ひどいのになると「お気持ちだけ、ありがたく頂戴致します」なんていうのがある。プレゼントについてもこの差は明瞭にあらわれ欧米では「マイ・ベスト・プレゼント」(力いっぱいあなたの為に探しました)に対し、日本では「粗品」(あなたにふさわしくない品物)である。この差は、ひとえに”お察し文化”の違いなのである。「つまらないものですが」はあなたの立場からは、つまらない贈り物に見えるでしょうが、私の精いっぱいの気持ですという意味なのである。つまり、お察し下さい・お察しするコミュニケーションが脈々と流れている。「今度映画に行きませんか」と誘われた場合も、「イエス・ノー」では答えない。「いやあー、今日はちょっとネ」とか、きわめつけになると「ははははあー・まいった・まいった」とか「どうも・どうも」なんて言う人がいる。誘った方は、かような言語の中から「相手が行くのか・行かないのか」早急にお察ししなければならいのだ。この“お察し”のアンテナがさびついたり、感度が悪くなれば、日本社会ではたちまち精神的村八分にあってしまう。「気くばり」や「KY=空気を読む」ことが求められる。、相手の立場を”お察し”することと相通じ、気配りが日本特有に“気疲れ”という言葉を生み出している。
“お察し文化”は、日本古来の農耕民族文化と日本の木と紙で作った住居構造による。障子とフスマの日本の住居は、たとへ、個室であっても、おのずと隣室の人が起きているのか寝ているかを視覚を通さずに配慮(気くばり)しなければならない。隣のセキばらいや寝息まで聞こえてくる住居にあって、隣人への配慮がつまり”言わなくても、わかる”という独特の”お察し文化”を作ったのである。西洋の住居構造は石の独立した個室であって、隣人への“お察し”は不要である。すっかり住居も思考も西洋化したわれわれであるが、心の中には、まだまだ”お察し文化”が残っている。・・・・・・といった話をした。さて、「お勘定の支払い」にあたって、アメリカ人が「払いますよ」と言った時に、私はつい「まあー、まあー」と言ってしまった。しかし、アメリカの友は、ついに最後まで”お察し”してくれなかったのである。