「あの人はいい人だ」
「あいつは能力がある」
「あいつより俺の方が偉い」
「あいつにはとてもかなわない」
人は自分を基準にしてかように人を評価する。
自分にとって親切であったり得になる人なら、正確には「自分にとってあの人はいい人だ」と言い直さなければならない。
他の人にとっては「悪い人」であるかもしれないから。
能力も自分を中心に考えるとできる奴、できない奴にわかれてしまう。だから他人よりある一つの尺度でぬきんでた場合に、すべての人格の上でも「俺はあいつよりも偉い」という絶対身分制度を自分の心の中で作ってしまう。これが大きくなればセクショナリズムや階層、階級につながってしまう。
そしてあまりにも相対比較がすすんでいくと、他人と比べて少しでもダメならばおちこんでしまう。むしろ他人との評価、他人の評判というものだけが、その人の生きる尺度となってしまう。
結果的に相対的評価には、充実感や満足感は得られない。なぜならば、常に絶対的で全体を満足させられるような人はいないからである。
従って、いつもモヤモヤや不満感が心の重荷になっている。
酒を飲むと、主題が「人の悪口」になって、副題が「職場を良くするために」と付くのは、このためである。
「あいつはダメな奴だ」
「オッ、誤解しないでくれ、俺の好き嫌いで言ってるんじゃないんだ」
「そうそう、職場を良くするために、あいつはダメだと言っているんだ」ということになる。
かくして「○○を良くするために」という副題が必ず付くのである。
これも自己弁解、自己のうしろめたさも「崇高な理念」あるいは「公共の福祉」を最後にわずかにつけたすことによって、自分のストレスを解消しようとしているにすぎない。
人は、他人との比較や自己の欲望に反した行動において目標を達成しても充実感は得られない。目標管理の根本は「自己管理」である。
仕事の達成・企画・改善・あるいは専門技術の自己開発など、もともと誰にさしずされるまでもなく、己の自律の精神に基づいて達成されるものであろう。
自分の心の中で決めたことが、達成されたか達成されなかったかの比較によって満足感がはじめて生まれるものである。
他人との比較は、やめよう。
「悪口酒場」では、
主題は「職場を良くするために」
副題は「そのために自分は何をしたか」
に、話しのトーンを修正すれば、きっと酒の味も倍になり、少量で満足する。